高次の欲求と存続期間

社会的な承認などは「高次の欲求」と言われる。


目の前の他者が優しげな表情をする、というのは直接的な刺激だし、それを求めて行動するのは理解しやすい。

しかし「人類への貢献」とか「社会からの承認」という欲求は、求めているものが抽象的である。


もちろん、それらを部分的に具体化することも可能であろう。

ある人から褒められれば、「社会からの承認」がある程度充足されうる。

しかし目的自体は抽象的なままである。


高次の欲求というか抽象的な目的はいかにして生じるか?

マズロー的には「低次の欲求が充足されたら」ということだろうが、根源的な欲求が充足された後にそれをもたらす様々な刺激・行動が強化され、それらが二次強化子として機能することが不可欠なのではないか?

(この場合の「根源的欲求→抽象的な目的」は必ずしもマズローの考えに沿うものではない。マズローの説はどちらかというと「強力な本能的欲求が充足されると、それに比べてささやかな高次の欲求に駆動される」という印象だし、高次の欲求が本能的欲求によって価値を付与されるわけではない)


抽象的な目的が「二次強化子」なのであれば、その目的に向かった後に本能的な欲求も充足すれば二次強化子としてその後も価値が持続するが、本能的な欲求が充足されなければいずれは消去される。

抽象的な目的が、本能的な欲求の充足を伴わずにどの程度持続しうるかは、強化学習的には学習率の影響を受けるし、もちろんそれまでにどの程度(本能的欲求の充足によって)強化されているかにもよる。



…もしかしたらマズローの説もそういう風に解釈できるのかもしれないし、そういう解釈がすでにあるのかもしれない。

その都度手間をかけなくても食欲や性欲・睡眠欲が充足できるようになったら、その報酬は直前の行動だけでなく、雑多な周囲の刺激に割り当てられる。

(手間が大きければ、その「手間」にほとんどの価値が割り当てられてしまうだろうが)


価値の割り当てられた雑多な刺激は、その後様々な抽象観念を形成する。



抽象的な目的が本能的欲求の充足によって価値を付与されているのだとしたら、本能的欲求の充足の程度によって、抽象的な目的の(それが本能的欲求を充足しない場合の)持続期間が規定される。

資産家の子息で、日々満ち足りた生活をしていれば、何ら益のない研究や奉仕活動にも長期間取り組める。

それは取り組む活動(研究や奉仕活動)自体が好ましいものだとすれば、(長期間それを行えることも)基本的に好ましいことだろうが、活動の成果を減じる場合もある。

それは活動が「最終的には(本能的欲求を充足する)利益を生むべき場合」や「何らかの価値基準で評価され、評価に応じて利益(しばしば金)が与えられる場合」である。

そういった状況では「日々の欲求充足の程度が低く、高次の活動そのものへの関心が長期間持続しない」人間なら、利益に繋がらなかった場合にすぐに行動を修正できる(少なくとも既存の行動パターンを中止できる)が、利益の存在なしに長期間持続してしまう人間だと、いつまで経っても修正されないことになる。

ただ、「長期間それを行える」ことで、試行錯誤を繰り返して高い水準に達する場合もあるし、フィードバックには敏感だが短期間しか活動を持続できないために成長しない場合もあるので、どちらが好ましいか一概には判断できない。