不快な経験によって人格が捻じれる機構

twitterより

あれですよね、「後輩イジメの連鎖」というのも、先輩からイジメを受けてる時はどうにかそれに耐えるために「いずれは自分の番だ…!」と思うのかもしれないし、イジメを受けなくなった時に都合よくその発想を捨てられるかというとそうでもないわけで。

自分はまぁもし部活なんかで先輩からイジメを受けようものなら、耐えるのはアホらしいのですぐ辞めるだろうし、「価値観を捻じ曲げて耐える」なんてことは絶対しないから、「イジメの連鎖は滑稽だ」とか、簡単に言えてしまうんですがw

まぁ単純に「やられたこと」は「やっていいこと」だと判断して、元々の(他人をいじめたい)欲求に従っていじめただけ、という人間もいるか。


上記のような現象はあると思うが、そもそも「価値観(認識)を捻じ曲げて耐える」とはどういうことか。

「先輩からいじめを受けない」という選択肢(本来当たり前に享受できるものだが)が頭に浮かぶと、それとの比較によって「いじめを受ける現実」はつらくなる。

しかし「後輩に対するいじめは部活の伝統」などと考えれば、「先輩からのいじめを受けない」という選択肢は浮かばなくなるので、「いじめを受ける現実」はさほどつらくなくなる。(まぁ肉体的な痛みはどうしようもないけど)

まぁそういう具合に認識を修正して耐えるのは仕方ないとして、先輩からのいじめを受けなくなった時(自分が上級生になった時)にそれが修正されないのはなぜか?


「先輩からのいじめを受けない」という選択肢を脳内から消去するためには、「部活→後輩が先輩にいじめられるもの」という発想の流れを強固にしておく必要がある。

強固になった発想は、そうする合理的な理由がなくなった後も行動に影響を与え続ける。