無償の愛と有償の愛

別に「愛」に限ったことではなく、「投資」でも構わないのだが。

要するに見返りを期待する行動とそうでない行動があるということ。

両者の(意図以外の)違いはなんだろうか?


見返りを期待する場合、欲しているものはその見返りであって、愛とか金とかを注ぐこと自体ではない。

見返りを期待しない場合には、愛とか金を注ぐこと自体が目的である。

しかし「愛や金を注ぐこと自体が目的」ということはあり得るのか?


例えば男性が女性にご飯をおごる時に、交際に繋がることを期待しているのなら、「見返りの期待」だろう。

では「一緒に食事すること自体が目的」ならばどうか?

この場合も「一緒に食事すること」が見返りと言えなくもないが、金を費やす行為そのものであるので、「無償」と解釈できないこともないかもしれない。


人間は特に理由がなくとも、一日のうち一定の時間が能動的な行動を起こすエネルギーがあるだろうし、それが何かしら好ましいフィードバックの得られるものであればよりよい。

金も似たようなところがあって、一定額の支出ならさほど苦もなく感じるし、それで何かよいものが得られればより望ましい。


「無償の愛」についてもう一つ思うのは、例えば誰かに資金なり便益なりを提供すると、その人間の活躍等を自分のことにように喜べるということだ。

もちろんそこで「お前の成功は自分の貢献のおかげなので見返りをよこせ」と言っても、見返りが得られる見込みは薄いが。

そんなことをしなくても、その人間の活躍自体を喜ぶことができる。

これはなぜか?

また、そこで「貢献」が必要な理由は何か?

(次のエントリに続く)