応用力についての一考察

「応用力」という言葉もかなり多義的に用いられている。

学問などを「応用する」と言った場合、理論を産業などに生かす(具体化する)という意味で用いられる場合もあるし、「演繹する」とほぼ同義の場合もある。

ここではさほど厳密に定義しないが、「演繹する」に近いニュアンスで用いる。


例えば力学の法則を理解して、それを物体の予測に「応用」する場合、答えはほぼ一つに定まるし、「正しい応用」かどうでないかは比較的明確である。

しかし社会科学や人文学などで既存の理論を「応用」する場合、元の理論を完全に理解した上で「応用」しているのか、不確かなケースもある。


「原理原則に則って適用対象に合わせて細部を変更する」という場合には「応用」と言っていいだろうが、原理原則に則らずに「結果を似せる」ことを「応用」と主張する人間もいる。

問題なのは、学校などで教員が「応用力を養う」などと考えた場合、このような原理をないがしろにした表面的な模倣を「応用」の例として称賛してしまうことである。


原理原則に則ったものか、それを無視した表面的な模倣かはどうやったら区別できるだろうか?

物理法則ならば、実際に物体の動きを予測できるかどうかで白黒つけることができるが、分野によってはそれは難しい。

表面的な差異が小さければ応用で、大きければ模倣という分け方も筋が悪い。

原理原則に則って大胆な変更をすることが、非常に優れた「応用」であることもある。