欲求の解消と俯瞰

マズローによれば、低次の欲求が充足されて初めて高次の欲求が生じるそうな。

かなり大雑把な話だが、経験的にそう間違っていないことは分かる。


基本的に明確な欲求が存在していれば、脳のキャパシティはそれを充足するのに大部分が割かれるのだろう。

強い欲求が解消されて初めて広い範囲の探索(思考の拡散)が可能になる。

「低次」「高次」という分類は、「強い欲求」と「弱い欲求」と解釈することもできる。

強い欲求が充足されて弱い欲求しか残らなくなると、行動を起こすのに十分な動機を確保するために「弱い欲求」を寄せ集めて、広範な欲求を一度に充足するような方法を取る。(例えば人類の平和を願うとかそういう)

つまり「弱い」からこそ「高次」というか抽象的というか一般的な欲求(目的)になるのだろうと。


ちなみにマズローが言うような「低次の欲求」は、動因か誘因かと言えば動因(drive)の方だろう。

しかし「単一の欲求で思考を埋める」際には必ずしも動因に依存する必要はなく、強力な誘因があればそれで思考を埋めることもできる。

逆に言えば、高尚な思索に耽るためには自分の周囲の誘因(例えば遊び道具など)を排除する必要があるのかもしれない。


また特定の誘因に依存した欲求の充足を何度も行うと、その行動が強化される場合がある。

行動の強化は、外部の誘因によって引き起こされた行動が、半ば動因として生じるようになったと解釈することもできよう。

そういう意味では、「高尚な思索に耽る」ためには、一時的に誘因を排除すれば十分とは限らず、長期間誘因を排した禁欲生活を送るのが望ましいのかもしれない。


P.S. 刺激の少ない環境で、常に「高尚(抽象的)な思索に耽る」とか「大きな社会的意義のために生きる」ことの利点は、目的の連続性が担保されやすいということ。

目的が達成されてしまった場合、別の目的を設定せにゃならんわけだが、目的の移行はそれなりにストレスになるし、設定したばかりの目的は(達成意義等の文脈が乏しく)充実感も小さい。

そういう意味でも、雑多な刺激(目的)を排して、大きな目標に向かうのが満足感を高める戦略として有効なのかも。