目的の曖昧さと絶望

当然の話だが、何を欲しているのかが曖昧なまま行動を起こしても、満足できることはまずない。

普通は「欲しているもの」は明瞭だろうが、そうでない場合もある。


例えば、中学時代に友人と楽しく遊んでいたが、自分だけ別の高校に進学したところなかなかそこに馴染めず、鬱屈した日々を送っていたとする。

そういう状況では漠然と「中学時代の日々」を取り戻そうと考える場合があるが、それが建設的な行動に結びつくことは少ない。


そもそも「中学時代の日々」を取り戻すのは不可能である。

ふだん離れた場所で生活しているなら、「同じ友人との関係」を構築するのも難しい。

おそらく、同じくらい仲の良い友人ができれば、おおよそ満足できるのだと思うが、「中学時代の日々を取り戻す」という発想だと、必ずしもそういった行動(新たに友人を作る)を起こさず、状況が停滞してしまう。



また「中学時代の日々」が、主に「特定の友人と趣味に没頭したこと」で構成されているのなら、趣味を共有できない友人を何人作ろうが、不満を抱くことになる。

その状況で「友人さえ作れば以前と同じような満足感が得られるはず」と考えていると、相応の労力を費やして友人を作ったのにも拘わらず、満足感が得られないので、フラストレーションを抱えることになる。