劣等感について
全般的に能力が低い、と思いこむ場合もあるだろうが、特定の要素に関して特に自信がない、という場合の方が多いだろう。
容姿に自信がない人間がいれば、運動神経に自信のない人間もいるし、学力に自信がない人間もいる。
それ自体は仕方のないことだと思うが、「特定の要素が劣っている」ことによって「誰からも受け入れられないのでは?」という発想に至るのはなぜだろうか?
「ある要素が劣っている」のが他人であれば、「優れている部分もあるし、構わないのでは?」と楽観視することは比較的容易である。
しかし自分だとそうはいかないことが多いのではないか。
「他者からの受容」に固執した結果として、それを脅かすものが許せなくなる、という面はあるかもしれない。
そういう意味では「固執しない」ことが重要だが、世捨て人になってしまうのも問題である。
「固執しない」にしても「欲しいものはある」のが普通だし、欲しいものを手に入れる算段は練るべきである。
欲しいものを手に入れるための条件が不足しているのなら諦めるしかないが、重要なのは「欲しいもの」に応じて「手に入れるための条件」を正しく把握することである。
満たされた状態では基本的に「欲しいもの」は全て手に入っているわけだが、それを手に入れるための要素を「現在の自分を構成する要素全て」と考えてしまうと、その要素を全て維持しようとして、極端に保守的な姿勢になってしまう。
すでに手に入っているものを維持する場合、「条件の見極め」はしばしば「必要な条件の想起」よりも「不要な条件の切り捨て」が主になる。