絶望と合理主義
「優秀な人間は常に利益を最大化する」のではなく、「今までそれなりにやってこれた人間は保守的になる」し、「痛い目に遭った人間は試行錯誤を経て合理的に振舞う(≒利益を最大化する)」のだと思う。
上記のような行動は、「幸福度を一定に保つ」とか「幸福度が一定以下に下がったら行動パターンを変更する」と解釈することができそうである。
それ以外の解釈として、「絶望しないと不合理な考えから離れられない」というものもあるかもしれない。
この場合の「不合理な考え」は、「特に根拠はないが現状維持」といったもの。
まぁ現状が好ましいものであるなら、現在の行動パターンも適当である可能性が高いが、そういう論理に基づくわけではなく、漠然と「現状維持が正しい」と思い込む場合が多いようだ。
生物は、行動や状態と、報酬との関係から、報酬の獲得に適した振舞いを学ぶが、どの行動が報酬をもたらしたかはっきりしないこともある。
特に人間関係においては、何が原因で他人から評価されるか特定が困難である。
満ち足りた状態では、あらゆる行動やあらゆる刺激が、全般的に強化されるのだろう。
そういう状態が続くと、行動は固定されやすいし、報酬の獲得とは無縁の行動も維持されやすい。
もちろん、新たに報酬を得ればその直前の行動は強化されるだろうが、普段から報酬が多いと、必ずしもその行動の発現確率だけ上がるわけではない。(S/N比が下がるイメージ)
しかし、追い込まれて何をやっても上手くいかない状況になったらどうか?
おそらく今度はあらゆる行動や刺激が消去されるだろう。
またその場合でも、行動を起こすことで小さな報酬を得ることはできるかもしれない。
そこでは純粋に報酬の獲得に寄与した行動(刺激)のみが強化され、関係ない行動は強化の対象になりにくい。
上記のような考えが正しいとすれば、宗教のような不合理なものは、豊かな社会で礼賛され、逆に理性万能の考え方は、過酷な環境で培われそうである。
しかし歴史を見渡すと、必ずしもそうはなっていない。