「楽な方法があるのではないか」という疑念

何らかの目的が定まり、それを達成する方法も見えたら、あとはそれを実行するだけだが、その段階で「他に楽な方法があるのではないか」という考えが浮かんで、目的達成の方法を実行できない場合がある。

もちろん「他に楽な方法がある」場合もあるだろう。

しかしそれがあるかどうかも明確でない状況で、(相応の労力を伴うとは言え)高確率で目的が達成できる方法を放棄するのは合理的ではない。


結局のところ「楽な方法があるのではないか?」という疑念は、判断のミスなどではなく、甘やかされて育ったことで生じる「病」のようなものである。

「労力を費やして目的を達成する」ためには、「自分で努力せずに目的が達成されることはない」という信念と、「自分で努力すれば達成することができる」という信念の両方が確立されている必要があるが、甘やかされて育つとその両方が欠如する。

それはメタな判断によって「できるはずだ」と念じれば何とかなるというものではなく、相応の経験を経なければ決して形成されないものである。