困難なことに挑戦する理由
人間にそういう傾向があること自体は誰もが認めるだろうが、その動機がどのようなものかは自明ではない。
「困難なものほど他者に評価されやすい」というのはあるだろう。
そういう打算は理解しやすいし、実際それなりに機能するのだと思う。
ただおそらく本質的なのは、「(自分にとって)困難であること」が自分の内部でその行動の価値を高める効果があることだと思う。
(この効果と上記の「他者の評価が得やすい」は完全には分離できないかもしれない)
「困難であること」が行動の価値を高める機能について掘り下げて考えてみたい。
Aという行動を起こすとA´という報酬が得られ、Bという行動を起こすとB´という報酬が得られるものとする。
A´とB´の報酬そのものの価値は同程度。
しかしAはBよりも難易度が高い。
上記のような場合には単純に報酬の価値から行動のコストを差し引いて、行動Bを行って報酬B´を得るのが賢明のように思える。
ただA´とB´が「同一」の場合にはそれでいいだろうが、多少質的な違いがある場合には、A´が欲しいという時もあるだろう。
また最初は「A´でもB´でもいい」と思っていたとしても、B´は容易に手に入ってしまうのでそれに飽き、A´の方が欲しくなるかもしれない。
A´が欲しいという欲求が持続し、かつAが困難でなかなか実行できずA´が手に入らないのなら、A´の価値は長時間持続する。
思考実験だけでも報酬の価値がそれをもたらす行動に割り当てられることがあるだろう。
行動が容易な場合には、漠然と「行動全体」に価値が割り当てられるが、困難な場合には…
いや、むしろ「印象」の問題なのかもしれない。
報酬の価値に依存して行動にも価値が割り当てられるが、割り当てられる価値は行動の「印象」というか負荷を限度とするものなのではないか?
その場合、行動が大きな価値を持つためには報酬が大きいだけでは不十分で、行動の困難さ自体が不可欠となる。
では報酬そのものではなく行動が高い価値を持つことにどのような意義があるのか?
報酬の価値を定義する脳内物質(おそらくオピオイドが中心)と行動の価値を定義する脳内物質(おそらくドーパミンが中心)が異なっていて、後者の物質に依存してしまった人間は上記のような「不合理」な行動を取るということなのかもしれない。