特定の条件下での完璧主義や自己の優位の認識について
以前、完璧主義を構成する要素や、完璧主義がもたらす満足感について考察した記憶がある。
「完璧」とか「最高」には、一定の条件を付加することが可能で、その条件に何らかの必然性があれば「ある範囲で完璧」といった認識を持つこと(またそれによって満足感を得ること)も可能である。
どういう条件なら付加できるのか判然としないが、いくつか例を挙げて考えてみる。
例えば、「大学受験の模試」は数値化されるので、良くも悪くも「完璧」な状態が外部によって規定されるわけだが(満点を取るとか全国一位を取るとか)、自分の実力や希少性に鑑みて、「校内一位」に価値を見出すのは不自然ではないだろう。
あるいは全教科で満点を取れなくても、特定の教科で満点を取ることに価値を見出す人間は多い。
つまりこの場合、「校内で」や「特定の教科で」という条件を付加しているわけだ。
もっと細かい条件を付加することも可能だ。例えば「クラスで一位」とか「国語の漢文で満点」とか。
ただここまで細かくなると恣意性が目につき、他人からツッコまれる可能性は高いし、自分自身でも満足感は得にくい。
シンプルに「全国523位」とか「合計238点」と、完璧でなくても恣意性のない基準で評価した方が潔いし、自分でもすっきりするかもしれない。(満足感があるかどうかはともかく)
「どこまでが自然か」に対して明確に結論を出すのは難しいが、「文脈」への依存性とその文脈が生じる頻度である程度説明できるかもしれない。
どういうことかというと、例えば模試の結果について友人と話している時に、唐突に「漢文は満点だった」と自慢するのはかなり不自然だし、友人の反感を買う虞がある。
しかし「今回漢文は簡単だったよなー」と漢文の話題が出たときに「漢文は満点だったよ」と言うのなら自然だし、それほどあざとさはないだろう。
自分自身でも、全教科の結果を見渡している時に「漢文は満点」に価値を見出すのはやや難しいが、漢文の話題が出たときに「そういや漢文は満点だった」と満足感を得るのは容易い。
しかしまぁ漢文の話題が出る(漢文の結果に焦点が当たる)機会は稀であり、結果的に「漢文が満点」だったことに満足感を感じるのはやや難しいということになる。(もちろん個人差もあるだろうが)
こういった「文脈」は必ずしも他者が介在している必要はなくて、自分が判断を下す際の思考の流れであってもよい。
判断を下す際に普遍的に用いる基準(例えば「自分は日本人なので…(留学時には語学がネックになる、等)」とか)であれば、その範囲内での「完璧」を想定するのは自然だし、それによって満足感を得る(「日本人としては最高レベルの語学力」とか)こともできるだろう。
だからまぁなんつーか、恣意性は介在しうるけど、自己満足のために都合よく条件をつけられるわけではないよね、と。
(まぁ中にはそれをやる人間もいるけど、必然的に「井の中の蛙」や「お山の大将」になるので、いずれ虚しさを感じることになる。というか、交際範囲を広げるとそれを否定せざるを得なくなる)
「条件の付加」が可能かどうかやや微妙なケースは、「労力の割に」といった条件を付加するもの。
分かりやすい例だと「勉強しないでも90点とれた」とかそういう話ね。
(まぁこの例だと「少ない労力で高い成果を出せた」ことで、自己の有能さをアピールしてる面もあるので、例としてイマイチなんだが。)
何が問題になるかというと、「労力の割に」と言った場合、その条件は外部から与えられる制約ではないので、必然性が認識しづらいのだ。
努力すれば労力そのものを増やすこともできるので、