思考の退行とか適当な探索範囲とか

この場合の「退行」は、単純に質が下がるという意味ではなくて、結論から離れ(後退し)、より基礎的な(前提となる)問題に思考の焦点を移すこと。

人間の思考が何か目的を達成するために為されるものだとしたら、「退行」はネガティブなニュアンスを持つことになる。


しかし「退行」が有益な場面もありうる。

例えば、受験勉強をいつも同じ方法でやっていたとして、ある時成績の伸びが止まったとする。

そこで闇雲にさらに勉強するのではなく、一度勉強を中止して「どういう勉強が効果的か?」と考えるのも、上記の定義では「退行」の一種だ。

結果として別の勉強法に切り替え、それによって成績が伸びるようになったら、「退行」は有効だったと言える。


そんなわけで思考を「退行」させるべき時もあるわけだが、一般に思考が退行するか否かは、合理性に基づく判断ではなく、状況に応じた半ば自動的な反応として現れる。

すなわち、期待した結果がなかなか得られないと、自然と思考が退行するし、そうでなければ(そこそこ期待した結果が得られていれば)思考は退行しない。(ただしどの程度の失敗で退行するかどうかには個人差がある)

「哲学」などはある意味思考の退行の産物と言えるので、ソクラテスの「ともかく結婚せよ。 もし君が良い妻を持てば、幸福になるだろう。 もし君が悪い妻を持てば、哲学者になるだろう」という箴言は高い確率で当たるのではないかとw


思考の退行はある種の防御反応というか、失敗続きの状態を打開する機制として内在してると思うのだが、それが上手く働かない状況もありうる。

「失敗続き→思考が退行→別の方法を思案→成功」となればよいのだが、「失敗続き→思考が退行→別の方法を思案→それでも失敗(成功率がむしろ低下)」もありうるし、「失敗続き→思考が退行→実益のない抽象的な思索の連鎖」というパターンもある。


そういう状態を独りで解決するのは困難で、周囲の人の協力によって、成功する見込みの高い方法を教わるなり、目的自体が不明確になっている場合には、適切な目的を設定してもらうのがよい。



まぁ一般に「退行」はそういう形で(半ば自動的に)現れるわけだが、合理性に基づいて無理やり退行させることも可能ではある。

その場合、注意すべきなのは、思考が「無限退行」しないようにすること。


思考を一段階退行させて(例えば「勉強が捗らない→塾のアドバイザーを替える」)、生産性が上がったとする。

それはいいことなんだが、それに味をしめ、一段階退行した状態を頻繁に繰り返す(「塾のアドバイザーを頻繁に変更する、あるいは変更を検討する」)と逆に生産性が下がる場合があるし、さらに何段階か退行させていく(例えば「塾のアドバイザーを誰にすべきか別の人に聞く」とか?w)と、結果からどんどん離れていき、フィードバックしてその判断を評価すること自体が難しくなる。


例えば20代後半に仕事に行き詰り、「別の仕事が向いているのでは?」と感じたとする。

他の仕事を検討しても構わないし、理論的には今と全く違う仕事が適職である可能性もある。

しかし本当に検討する範囲を「世の中の全ての仕事」にすべきなんだろうか?

現在の仕事に近いものを検討し、そちらに切り替えてそこそこ満足できればそれでいいのでは?


人間の人生には無限に可能性があるため、探索範囲も無限で、全てを検討してから行動を決めることはできない。

少しメタな発想として、「検討の(範囲の)最適値」を求めることは不可能ではないかもしれないが(例えば先達に「どのくらいの時間進路について考えたか、どのくらいが適切か」を聞くとか)、まぁ概算するのがせいぜいだろうし、それによって将来の利益が向上する保証もない。


結局「一部だけ探索して選択する」ことは、人間の宿命として受け入れるしかないのではないか。

探索範囲を広げるのは、上手くいかない時だけでよかろう。



P.S. 「信じる」か「疑う(suspectではなくdoubt)」かも、究極的には対象の尤もらしさではなく、信じた結果、(見掛け上)期待した結果が得られているかどうかによるのだ思う。

上手くいってる(ように見える)ときはその手法(あるいは媒介人)を疑わないし、上手くいかなくなったら(あるいは不協和≒他の成功事例との差異を感じたら)疑う。

もちろん実際のところ人間は結果を得る前に対象(手法なり媒介人なり)について「信頼できるかどうか」を検討するわけだが、それはあくまで「メタな」判断であって、「(そこそこいけそうだと感じたら)とりあえず信じてみる」のが人間の基本的なスタンスだろう。

その手法が間違っていたとしても(他人に騙されていたとしても)それに死ぬまで気付かずにいられるなら何の不都合もないわけだしね。

もちろん、いい加減なものを信じた結果痛い目に遭うこともあるわけだけど、それは人間という存在の宿命だろうと。

「他のものを信じる」ことは可能だが、「何も信じない」ことは不可能なので。