それは本当に解決すべき悩みなのか?
個人的な経験に基づいているのでそこまで一般化できないかもしれないのだが。
自分の場合、中学くらいまではそこまで長い時間悩んだりすることなく生きていた気がする。
まぁ一時的に悩むことはあったのだが、問題が(見かけ上)解決すればそれで満足できたというか。
ところが高校くらいから、常に自分の将来のことやら、他人からの評価のことやらを長時間思い煩うようになった。
「思春期にありがち」と言えばそうなんだが、少しそこを突っ込んで考えてみたい。
人間の脳は(中身≒記憶はともかく)生まれたときにすでに枠組みは完成しているわけだが、出生後も微妙な変化は起こる。
例えばホルモンバランスの変化であるとか、髄鞘化の進行であるとか。
仮にそういったものが原因で、情報の処理様式自体が変化しているとしたら?
高校の時点で頭を悩ませた要素は、中学の時点でも存在していたものだろう。
中学の段階でさほど悩まなかったのに、高校で悩むようになったのはなぜか?
一つの解釈は、「外部の状況は同じでも、内部の処理様式が変わった」というもの。
「処理様式」というと大仰だが、少なくとも何らかの違和感を「問題点」として意識に顕在化させる閾値の低下は起こっているのではないかと思う。
だからいろいろ悩むようになるのは仕方ないことで、それは単に自分の感受性の問題で自分の状況(抱えている問題)が悪化しているわけではない、という認識を持つことが重要なんじゃないかと。
実際「悩みが多くなる」と言っても、多くの人の場合、耐えられないストレスではないだろうし。
あとなんつーか、その以前の段階で「(顕在化した)悩みの全くない状況がデフォルト」だった場合、しばしば「顕在化した悩みは全て解決してから前に進む」という行動パターンが定着しているケースがあるけど、感受性の変化によって「より多くの悩みが顕在化する」ようになったら、その行動パターンは維持できないということ。
結局のところ思春期以降は、ある程度悩みというか不全感を抱えたまま生きていくしかないんじゃないかと。
もちろん、加齢に伴ってその後は感受性が低下すると思うので、次第にまた「悩み」も減少していくのかもしれないが。
その場合でも「不全感を抱えたまま生きていく」ことは重要なんじゃないかと思う。
世間で「コンプレックス」と言われるものは、そういった不全感の一種なのかもしれない。
しかし(心理学の専門家では定義が違うのかもしれないが)一般的に用いられる文脈だと、コンプレックスの原因をその個人の生育環境・経験に帰する傾向があるので、個人的には違和感がある。
いやまぁ具体的な「コンプレックス」の内容は人それぞれで経験を反映するのかもしれないが、「余計な悩みが生じる」こと自体は単なる生理現象に過ぎないんじゃないかというね。
まぁ何かしら解決策が思い浮かぶんならそれを実行してもいいんだが、解決できないのなら「自分は取るに足らない問題を思い悩んでいる」と認識して極力スルーすればいいんじゃないかと。
先述のように、「全ての問題の解決に固執する」とか、「悩みが生じるのは状況が悪化したからだと考える」と、しんどいですよーとね。