嘲笑とか嫉妬とか

人間の多くの感情に共通する機構として、「特定の概念に意識が集中→接近できれば満足(→不可能であればストレス)」ってのがあると思う。

分かりやすいのは子供が親におもちゃをねだる時で、買い物に出かけた時などに興味のあるおもちゃが目に入った段階で「特定の概念(おもちゃorおもちゃで遊ぶ)に意識が集中」する。

で、それが買ってもらえれば家で心ゆくまで遊べるので「接近できて満足」。

買ってもらえなければストレスになる。(この場合、おもちゃを目にしなければ要らんストレスを避けることができたわけだ)


んで、「嫉妬」というのは、何らかの好ましい物(あるいは特性)を他者が持っていることで、特定の概念に意識が集中するが、それが自分には手に入らないのでストレスに繋がるというものなのかと。

ここで嫉妬する相手を貶めると、自分の意識の中で「好ましいものを手に入れることは貶められることを伴う」という架空の論理が成立し、好ましいものへの執着を弱め、嫉妬の感情を多少和らげることができる。


嫉妬に関してはおおよそそんな仕組みじゃないかと思うんだが、嘲笑はちょっと難しい。

この場合の「嘲笑」は、差別とか他者の疎外による満足感と似たようなものね。

まぁなんつーか、嫉妬と似た仕組みで、他者を疎外することによって「集団に所属している」ことに意識を集中させ、それがすでに満たされている自分が満足感を得る、と考えることができるかもしれない。


とすると「意識を集中させる」のに必要なことは何なのだろう?

それが無条件にできるのであれば、他者を疎外するなどという迷惑なことをしなくても幸福になれるわけだが。

「明らかに満たされる」ものではダメなのか?


…実際のところ、静的な条件(特定の属性・能力に起因)ではなく、動的なものなのかと。

日々生活する上で意識を都合よく処理すべき対象に向けなければならないわけだが、どういった概念に意識が集中するかはその「処理すべき対象」によっておおよそ決まってしまう。

恣意的に特定の対象に向ける、あるいは特定の対象から逸らす、といったこともある程度は可能だが、生活するための意識の流れから完全に乖離させることはできないので、快楽のための恣意性を帯びた意識の向け方も、それなりに類型化するのだろう。


ちなみに「嘲笑」が上記のような仕組みで起こるのであれば、他人の努力をあざ笑う心理は、「他者が苦労している(苦労にフォーカス)→自分は苦労しないでも欲しいものを手に入れられる(接近できるので満足)」といった感じか。

この場合、「自分は苦労しなくとも手に入れられる」が真実なのか妄想(無知による楽観)なのかが嘲笑を問題視すべきかどうかの判断基準になるのかと。


あと「特定の概念に意識が集中→接近できれば満足(→不可能であればストレス)」が意味不明と思う人もいるかもしれない。

特に「接近できれば満足」の辺りが。

この辺は心理学や脳科学の知見ではなく、単なる私の仮説なのだけど、特定の概念(対象)に意識が向いた場合、それを満足感を伴う形で「完結(終了させ、別のところに意識を向ける、というニュアンス)」させるには、その概念にさらに意識を集中させ、「飽和」させる必要があるのかと。

この時、「さらに意識を集中させる」のは自分の脳内だけでは困難な場合が多く、外界の刺激を制御する(つまり欲しいものを手に入れるとか)必要が出てくるのではないか。


「飽和させて完結させる」ことが不可能な場合はどうなるか。

その場合、「集中(執着)」の程度にもよるが、なかなか意識を別の所に向けるのが難しいのだと思う。

それでも他にやるべきことがあれば意識をそちらに向けざるを得ず、この際にストレスが発生するのではないかと。