トレードオフの関係にあるもの

自明ではないけれど、トレードオフの関係がありそうだなぁと感じるものを列挙してみる。(あとで読み返したら自明のものが多い気もw)

人間の行為・性質に関するものの場合、自分の意志でどちらを優先するか選択できるものもあれば、先天的にどちらが得意か決まっている場合もある。

物事の一面に着目して「どうあるべきか」を論じるのは容易だが、実現されていない「美徳」は往々にして他の美徳とトレードオフの関係にあるので、そこを認識するのが重要なのかと。

もちろん「トレードオフだから欠点には目を瞑るしかない」と主張したいのではなく、「トレードオフなので両者を天秤にかけて判断しましょう」という意図。


書いてて思ったのだが、見掛け上「トレードオフ」になるものでも、対立している(片方を伸ばすともう片方が抑えられる)とは限らないかも。

例えば、「能力Aと能力Bの総和」で選抜された集団の場合、中には能力AとBが共に高い人間もいるだろうが、大半は「能力Aが高いがBはほどほど」か「能力Bが高いがAはほどほど」になると思うので。

上記のようなケースも混在しているので、その辺を考慮した上で読んで頂きたく。


発想の斬新さ・行動力<=>言動の一貫性

過去の自分の言動に囚われないことが、斬新な発想・人間離れした行動力の必要条件だと思うんだけど、それは周囲の人間にとっては不誠実と感じられる場合も。

進行中のプロジェクトが社長の一言で大幅変更、とかも厄介だけど、個人の仕事・役割について鶴の一声で変えられると、変えられた方は大きなダメージを受けることが多い。

「一流」と言われる人間はある程度その辺も考慮してるんだろうけど、「発想の斬新さ・行動力」とトレードオフになっている以上、有能な人間に付いて痛い目に遭うケースは結構あると思う。


行動力<=>洗練された主張

「行動を起こすかどうか」は「主張が一定の水準に達したかどうか」で決まるというより、行動を頻繁に起こす人間は主張の質によらず起こすし、行動を起こさない人間は主張の質によらず起こさない。

そういう意味ではトレードオフというより無相関なのかもしれないが、中には「主張(企画)がある程度洗練されたら行動を起こす」という慎重派もいるので、そういう人と比較すると行動力の突出した人間の主張(企画)は概して粗い。

ただ主張(企画)の質の高さだけで協力者を選ぶと、行動力のある人間が少なくなる場合もあるので、そこのところはよく考えるべきかと。

場合によっては「主張が粗いが行動力のある人間」を上手く使うことも必要。ただし企画の頓挫や組織破綻の原因になることもあるので、扱いが難しいと言えば難しい。


行動力<=>批判精神(懐疑精神)

上記と似ているのだが、批判精神ともトレードオフかなと。

自らに対する批判を受けて高みを目指した結果洗練された主張になるので、そういう意味では同じかもしれないが。


意見の量<=>意見の質

これも似ていると言えば似てるんだけど。

この対立は当然の話なんだが、「積極的な発言」を求めておいて発言の質の低さを突っ込む、という行為が散見されるので。

まぁ採用するのが危険な意見を棄却するのは当然だが、「積極的な発言」を求めるのであれば何らかのフォローが必要なのかと。


声の大きさ<=>柔軟性

この場合の「声の大きさ」は自説を主張する熱意に近い。柔軟性は必要に応じて自説を変更する能力。

自分の説が間違っているはずがないと思い込んでいるから自信満々に主張できるわけで、このトレードオフはまず不可避かと。

逆に柔軟性を維持しようと思うと、「自説が間違っているかも?」と思うので、なかなか自説を押し出せない。

ただ研究者なんかの場合は両立しないこともないのかも?彼らの場合は「データ→結論」の論理には自信を持っているが、データが変われば結論を変えるのは当然だと思っているから。


意見の質<=>柔軟性

これは一つ前のやつよりは両立する可能性が高い(つか、ある意味柔軟性は意見の質の向上に必要だ)んだが、短期的にみるとある程度自説に自信を持っている人間の方が(自説が不利な場合でも)誤りを認めにくいかなという。

一種のサンクコストバイアスかもしれない。


能力の高さ<=>他人に対する寛容さ

これに関しては異論もあると思うが、私の感覚だとそれなりに能力のある集団の場合、その中でさらに突出する人間というのは、自他に不寛容で妥協しない性格の人間が多いと思う。

もちろん、有能な人間なら他者への不寛容を巧妙に取り繕う場合も多いが。

「採用」という観点で見ると、「能力がさほど高くないのに採用された」人間は、概してそれ以外の面(人当たりの良さなど)が優れている、という解釈もできるかも。


自己解決能力の高さ<=>適切に他人の助力を求める能力・社会性

一般に自力で問題を解決する能力が高いほど、他人の力を上手く利用して問題を解決する能力は低いかなと。

「一方が高いと(それで問題が解決できるので)もう一方が不要になって能力が低い水準に留まる」という解釈も可能だが、どちらかと言うと新規な問題に遭遇した時に、既存の解決策の演繹で解決しようとする傾向が強いと前者になり、その傾向が弱いと後者になるような気がする。

「積極的に他人に助力を求める能力」には、容姿や家柄、話術なども寄与しそう。

「経済力」がどちらに寄与するかは微妙。どちらかと言うと「自力解決」の方だろうか?

「専門家に金払って問題を解決してもらう」は自己解決能力でも社会性でもない気がするけど。


洞察の鋭さ・奇抜さ<=>洞察の公正さ・精度

状況証拠から類推する能力(「読む」能力)は諸刃の剣なので、そこは自覚すべきかと。(無意味と言いたいわけではない)

「オリジナリティがあり、かつ正確」なのが理想だが、なかなか並立しない印象。


(記事などの)面白さ・単純明快さ<=>(事実の)正確さ・(立場の)公正さ

これについては同意する方が多いのではないかと。自分自身togetterでまとめを作成した経験などから、上記のトレードオフを強く実感する。

「面白い記事」というのは往々にしていい加減な情報を含んでいるもの。逆に正確さや公正さを重視すると、なかなか読者はつかないもの。

何となく人間が「面白い」と思う話は類型が決まっていて、多様な現実を無理やりそこに当てはめれば「面白いが不正確な話」になり、現実ありのままを伝えれば「正確だがつまらない話」になるのかと。

もちろん取材によって「面白い」話を探してくるとか、事実を詳細に分析して面白い要素を見出す、という手法であれば適切だと思うけど。(その分コストはかかる)


宣伝の効果<=>宣伝内容の適切さ

要するに内容をそのまま伝えたら売れないし、過大に宣伝したら詐欺になるという。

ただ本気で売ることを考えたら、違法スレスレの線を狙うのが賢明な気もする。

ブランドの確立した大企業の場合には、そこまでやらなくても売れるし、訴えられるリスクや顧客の信頼感を失うリスクの方が大きいだろうから、少し「適切さ」側にシフトするか。

あとまぁ長期的に売り続けたいなら、ある程度の「適切さ」が必要かと。


(格言・箴言・アドバイスの)適用範囲の広さ<=>例外の少なさ

後付けで格言を引用する場合には例外の存在は問題にならないけど、何かしら判断する際に大雑把なアドバイスに従うのは危険が伴う。

本来例外の多いアドバイス箴言は淘汰されるはずだが、適用範囲が広いと「有用」と見做されて持て囃される場合があるので注意。

まぁ「適用範囲が広い→言及する事象が多い」なので、例外も多いのは自明と言えば自明か。


判断の適切さ<=>判断に要するコスト(労力・時間)

「属人的な判断は避けよ」(誰が言ったかで正しいかどうか決めるのはよくない)とか、「○○にはこういう例外があるから誤りだ」という批判は確かに正しいのだけれど、多少例外のある判断基準でも判断に要するコストが小さくできるのであれば、全く無価値とは限らない。

「出身校で差別するのは許されない」も、それが簡便かつそこそこ妥当な判断基準になるのなら、一概に否定はできない。

つか、不適切な判断を非難するのであれば、同時に「その判断には大きなコストを投入する必然性がある」と主張すべきだよね。

もちろん、その道のプロフェッショナルなどは、多少のコストには目を瞑り、適切さを高めるべきなのだろうけど。


制度の柔軟性<=>制度の維持に掛かるコスト

例えば「新卒一括採用」は柔軟性に欠ける制度だが、採用・新人教育等を限られた期間に済ませられるという利点もある。

一般に制度の合理性を追求すると、制度の枠内で生きる人間のストレスは大きくなる。

どちらがいいという話ではなく、天秤にかけて決めろという話。


心地よい環境<=>自分を向上させる環境

並立させるのが難しいのは明らかだけど、向上させる環境(過酷な環境)ばかり選ぶのが正しいとは限らないと最近は思うようになった。

自分のストレス耐性や、ストレスと能力向上の比較によって、どちらを選ぶか柔軟に決めればいいのかと。苦労の大きさが能力の上昇と比例するとは限らないので。


効率的な能力の向上<=>恥をかかずに適度な労力で生きる

短期間に能力を伸ばしたければ、相応の労力(時間当たりの負担)を覚悟するのは当たり前。ただそれ以外にも「恥をかくこと」がほぼ不可避だと思う。

この場合は「恥をかいてモチベーションを上げる」ことではなく、「分不相応な仕事(教育カリキュラム)に参加して、過去に例のない惨憺たる結果を出す」ことね。

結果(スコア)がものすごく悪くても、同じ失敗であれば他者に与える不利益はさほど変わらない場合が多いし、嘲笑されるだけなら別に構わないと思うんだが。それよりも短期間で効率良く能力を伸ばす利点の方が大きい場合が多い。(まぁ精神的に強いことが前提だが)

もちろん、上司や教員が「お前には無理じゃない?」と言う場合、その仕事(カリキュラム)から十分に学べるだけの下地ができていないこともあるので、その際は大人しく引き下がった方が賢明かもしれない。ただ上司や教員が必ずしもそこまで考えているとは限らないので、自分なりに判断することも重要かと。(例えばペーパーテストなどの成績が悪くても、その仕事をこなせる自分なりの根拠があればそちらの方が信頼できる判断基準だろうし)

まぁ「仕事」の場合には実際に会社に不利益を与えることになるので、効率的な能力の伸長のために合理的に動くことは難しいけども。


知識・経験<=>情熱・意欲

基本的に特定の事柄を知れば知るほど、それに対する探究心は薄れていくかなと。探究心が「新奇性の追求」とほぼ同義なのであれば、それは自明と言えるかもしれない。

もちろん例外もある。詳しく知ったために新たな疑問が出てくるとか、ある程度経験を積んだら要領が掴め、面白くなってきたとか。

ただ総合的に見るとやはり費やした時間と共に時間当たりの面白さ・意欲は薄れていく場合が多いかな、という印象。

あと、そこそこの年になってものすごく意欲が高い、という場合には、単にその対象を誤解している場合が多い。


没頭する能力<=>何に力を費やすべきか見極める能力

一つ上の例に似ているけど。

一人の人間が両方持ち併せる例もなくはないんだろうが、一般に「没頭する能力」は若い頃がピークで、「何をやるべきか見極める能力」は逆に年を取ってから伸びるので、結局「時間を費やすべきものを見極めてからそれに時間を費やす」ということはできない。


仕事の質の高さ<=>最低限必要な質の見極め

両方高いのが理想だけど、たいがいどちらかに偏った戦略を取る気がするので。

おそらくMaximizer<=>Satisficerの対立に近いのだと思う。

一見仕事の質が高い方が有能な気がするが、どの仕事にコストを割くべきかという判断が弱いと、全体としての仕事の質はかなりばらつきが大きくなる。

そういう意味では「最低限必要な質の見極め」に長けた人間の方が安定感はある。


見識の深さ<=>見識(視野)の広さ

これも上記の対立に近いし、先天的なMaximizer<=>Satisficerの性向を反映すると思う。

やはり複数分野に跨るプロジェクトのリーダーなどは、深さではなく広さを持った人間の方が向いているだろう。

最近は「両方できないと話にならない」という時代になっているのかもしれないが、まぁそれができる人間はそうそういないわけで。


他人への寛容さ<=>他人への関心の強さ

「関心の強さ」は「面倒見のよさ」と換言してもいい。

「寛容さ」は他人の振舞いを許容するだけでなく、他人に余計なルールを押し付けない、といったことも含む。

どちらも一見人間関係の維持に有利だが、他人に寛容であろうとするほど他人に関わる利点が薄れ、他人に関わる動機が弱くなってしまう虞がある。


有事の備え(安全性)<=>平常時の合理性

「予算仕分け」などが典型的。


仕事の質の高さ<=>既得権の打破

既得権の打破には新規参入者が必要だが、仕事の質は低いものになりがち。


アプローチの積極性<=>相手への配慮

基本的に相手に気を遣えば遣うほど、アプローチが困難になる。

経験の豊富さからどちらにも長けている人物も稀にいるが。


迷いのない生き方<=>独創的、あるいは臨機応変な生き方

多くの選択肢から判断する場合には、労力だけでなく、かなりのストレスを伴う。「臨機応変」な生き方も、そう楽ではない。


指揮系統の厳格さ<=>組織の柔軟性

これは当たり前といえば当たり前なんだけど。