見限る機構

何か素晴らしいもの(人)があれば評価するし、下らないもの(人)があれば貶すだろうが、評価を確定しにくいものもある。

試験の予想をするとか、文化祭の企画を立てるという行動の場合、行動が正しかったかどうかは比較的短期間のうちに結論が出るため、その行動を取った人間の評価も確定させやすい。

しかし、「後の人生に重要」などという処世訓の場合には、その処世訓の正しさや、発言者の評価をなかなか確定できないことになる。

若い人間はしばしばそういう発言や発言者を過大評価するし、老成した人間は容易に見限る。

経験に基づいて見限っているという解釈も可能だろうが、単に年齢というか感受性の問題のような気もする。

「見限る」機構とはどのようなものか?


まず、ある行動が既存の価値基準で評価できるものであれば、評価を下すのにさほど迷いはないはずだ。

中には評価を確定するまでに時間が掛かる場合もあるが、その場合も時間さえかければ確定できる。

「見限る」ことができないのは、既存の価値基準以外の価値基準を提示するからであろう。


ただ、新規な価値基準は既存の価値基準と無関係に生起するものではない。

既存の大雑把な価値基準(金が重要とか人間関係が重要とか)に基づいて、そこへの新たな到達法を提示するものであろう。