「他人の評価を気にする」と「他人のために生きる」の違い

「他人の評価を気にする」には悪いニュアンスがあるが、「他人のために生きる」には良いニュアンスがある。

しかし両者を明確に区別することはできるのだろうか?


本人が義務感でやっていれば前者だろうし、主体的に動いた結果なら後者か。


後者は単純に行動の目的であろう。

「他者」は反応が多様で厳密な予測は不可能なので、報酬としての価値が持続しやすい。


前者のような義務感が生じるのはなぜか?

一つの仮説は、「他者の言うことに従って生きてる」と、自然とその他者の機嫌を伺うようになってしまうということ。

以前にも書いたが、他者が二次強化子となり、その他者と関連のありそうな刺激(相手の機嫌に影響しそうな言動)に自然と注意が向く。


「他人の評価を気にしない」ためには、何でも自分の判断で動く必要がある。


しかしまぁ幼少期は誰しも「他者の評価を気にする」し、気にするからこそ短期間に様々なこと(相手の機嫌に関わる)を学習できる面も。


「他人のために生きる」のは構わないのだが、実際は「他人の評価を気にする」の場合もあるので、自分でも気をつけるべきだし、他人の言動もそういう観点で吟味すべきかと。