失敗と合理化と認知の歪み

手掛かり刺激、あるいは手段の実行後に報酬が得られないと、ドーパミン系の活動は普段よりも低くなる。

こういった状況では、(仕組みはよく分からんが)ドーパミンの欠乏状態を補うために、別の方法で無理やりにでも報酬を得ようとする。

…まぁ物理的に埋め合わせる(例えば仕事が上手くいかない気晴らしに遊ぶなど)のであればさほど問題はないのだが、人間は解釈を捻じ曲げることでも報酬を得ることがきる。


例えば、大がかりな実験をしていて、実験の初期の段階で失敗したとする。

ここで、「初めに失敗したから、実行の後半部分でのコスト(消耗品など)を節約できた」という解釈で失敗の合理化を図る場合がある。

まぁ「失敗」が確定してしまったら都合よく解釈するしかないのだが、本来は「費やすコスト」よりも「成功で得られる利益」の方が大きいから実験するわけで、実験を開始した時点でコストを費やすことは了承していたはずである。

上記のような合理化を頻繁に行うと、次第に「コスト」への関心が大きくなり、実験自体に消極的になるという可能性も考えられる。



そもそも「複数の解釈が可能」という状態は、脳内でどのように表現されるか?