苦しみから逃れるための固執

私が無事でいたいと思ったり、銀行預金やいろいろな楽しみを持ちたいと望んでいる限り、また生理的、あるいは心理的に何かになりたいと思っている限り、必ず苦しみがあるのです。私が苦しみを避けるためにやっていること自体が、恐怖と苦痛を生み出すのです。(クリシュナムルチ)

実際そういう側面はあるだろうけど、恐怖(苦しみ)の対象とそこから逃れるためにすがるものの間には、必ずしも明確な因果関係がなかったりする。

なぜ合理的な理由がないのに、恐怖を一時的に打ち消すことができるのか?

単純に「気を紛らわせる」とか「ストレスを快楽で軽減する」という効果もあるとは思うが。


ある目的が達成できるかどうか、微妙だと感じたとする。

「微妙」なのはあくまで主観であって、実際は余裕かもしれないし、到底無理かもしれない。

「目的達成が微妙」という主観は、「目的達成できそう」という回路への好ましい刺激がわずかに足りないために生じるのではないか?