心の広さについて

自分の過去を振り返るに、「他人の身勝手な行動を許容する」ことだと思ってたフシがある。

それは「自分の見解を押し付けない」という意味では「心の広さ」かもしれないが、本来「心の広さ」とは相手の行動の意図を理解し、それに共感することではないか?


例えば自分と同じプロジェクトに関わっている同僚が、別の部署への異動を希望したとする。

現在進行中のプロジェクトは会社内でも注目されているもので、異動する動機が理解できない。

そこで「何を考えているのか分からないが、他人の行動にとやかく言うべきでないから、文句を言わずに送り出すべきだろう」というのは他人に迷惑はかけないけれども少々残念な対応かもしれない。

そこで相手の意図が分からなければ、叱責と取られない口調で「どういう理由なの?」と聞いてみるべきではないか。

そうやって聞いても理解できなければ、そのまま送り出すしかないが、理由を聞いて理解・共感できるのが一番好ましいのであろう。


…なんつーかね、倫理的な規範として「他人の行動に干渉すべきでない」というのを持っていると、他者の理解に消極的になるケースがあるのではないかなと。

もちろん「干渉する」ことと「理解する」ことはイコールではないのだけども。


twitterより。

他人の突飛な行動に対して「本人がやりたいならやらせてあげれば?」という寛容な態度を取る人間にも二種類いて、「他人の行動に干渉すべきでない」という倫理的規範を持っている場合と、「人間の行動の動機は多様だから人と違うことをしたがる場合もあろう」と動機の多様性を理解している場合がある。

(過去の自分の行動に根ざして)動機の多様性を理解している場合には、「心が広い」と言えるのかもしれんが、倫理的な規範を遵守している人間は「心が広い」わけではないよね。他人に迷惑はかけないけども、他者への理解はむしろ進まないことが多い。

「動機の多様性の理解」だと語弊があるか。「いろんな人がいるよねー」で終わってしまう場合があるので。「動機の理解」と言うべきなのかな。他者の行動に過干渉すべきでないけど、相手の行動の動機については理解できた方がいいんじゃないかと思う。もちろん相応の経験がないと無理な場合もあるけど。

いやなんつーか、「他者の行動にとやかく言うべきでない」という規範を持ってることで、他人への理解が阻害される場合もあるんじゃないかなーと。

他人に対して「なんでそんなことするんだ!」と何度も聞いてくる人間は確かにウザいんだけど、そういう態度を取る人間の方が最終的に自分のことを理解してくれる場合もある。(まぁ理解力の低さゆえに何度も聞いてくるケースもあって、その場合は望み薄かもしれんが)

まぁ自分なんかは元々他人の行動の意図を読むのが苦手なので、「干渉しないのが寛容さ」だと思ってたわけだけどw