批判の構造について

「批判」と言ってもいろんな要素があるけど、とりあえず「抜けた論点の指摘」を考える。

例えば特定の分野についてそれなりに熟知した人間Aがいて、その分野のある問題に対して、挙げるべき論点10個のうち、8個を挙げたとする。

挙げるべき論点のうち2個挙げられていないので、そこが批判の対象となりうる。


Aよりもはるかにその分野に詳しいBは、10個の論点のうち10個全てを列挙できる。ゆえにAの挙げていない2つの論点も指摘できる。

Aと同程度の知識を持つが、ややバックグラウンドの異なるCは、Aと同様に10個の論点のうち8個を挙げることができるが、挙げる論点の傾向はAと異なるので、CもAの落とした2つの論点を指摘できる可能性が高い。

Aと同程度の知識を持ち、バックグラウンドも似通ったDは、Aと同様に10個の論点のうち8個を挙げることができるが、挙げる論点の傾向はAと似通っているので、DがAの落とした2つの論点を指摘できる可能性はCより低くなる。

Aよりも知識の浅いが、バックグラウンドの異なるEは、10個の論点のうち5個しか挙げることができないが、それでもAの落とした論点のうち、1つは指摘できるかもしれない。


述べたいことはいくつかある。

まず、「バックグラウンドの異なる批判者はより重要」というお話。まぁ往々にしてバックグラウンドが異なると扱っている問題に関する知識は劣る場合が多いのだが、それでも重要っちゃ重要。

でも一番言いたいのは、「自分より力量が下の人間からも有益な批判を受けられる場合がある」ということね。


何となく「有益な批判」というとAに対するBのように、力量が上の人間(B)からでないと得られない印象があるが、決してそんなことはなく、同程度の力量の人間(CやD)や力量の劣る人間(E)からも有益な批判が得られる場合はある。

つまり「有益な批判を得る」とか「相手の批判(あるいはアドバイス)を受け入れる」のは、「相手が自分より格上であると認める」ことではない。


また上記の例だと、Bは問題を完全に把握しているので(実際はそんなことはありえないんだが)AがBの看過した点を指摘することはできないが、同程度の力量のCとDや、力量の劣るEに対しては彼らの見落とした点を(相手が自分にしたのと同様に)指摘することができる。

まぁ要するに批判の是非や意見の適切さ、企画の巧拙から(少なくとも個々の要素から)力量を推し測るのはあまり意味がないよね、というお話。


ちなみに「三人寄れば文殊の知恵」などと言うが、上記のような「論点の列挙」だと複数人が意見を出し合うことの有用性が理解しやすい。

単純に考えれば10個の論点のうち4個しか指摘できない人間でも、バックグラウンドの異なる(≒指摘する論点が独立な)3人が集まれば、[1-{1-(2/5)}^3]*10≒8で8個の論点を指摘できる。

もちろん「論点の指摘(列挙)」は問題解決のプロセスの一つでしかないし、複数人が集まる利点が最も生かされる部分だとは思うけど。(意思決定の段階では決定を困難にする場合もある)