何に価値を置くか?

人間の「価値」の感じ方に意志が介在しえないかというとそんなことはなくて、ある程度の恣意性は存在すると思う。

また、特定の事物の客観的な(普遍的な)価値というものは、厳密には定義できないだろうが、それに近いものを想定することはできる。(同じ国に住んでいて、似たような立場にあれば物事の評価の仕方も似通ってくるだろうから)

ただその「客観的」な価値に自分の価値観を近づけるのが常に合理的とも限らない。

以下、様々な「価値の置き方」とその是非について考察してみる。


1.自分の身近にあるものを高く評価する

悪くない考え方かと。

なぜなら手に入らないものを高く評価しても欲求不満が募るだけなので。

ただ、そういう人間は(特定の事物に関する)批評家として高い評価を得ることはできない。

なぜなら、その人間の評価は「自分の身近にある」という偶発的な理由で高い評価を下すので、他人の役に立たないから。

それはさしたる不利益ではないのけども。

「批評家としての評価を得るために、敢えて客観的な評価を心掛ける」と考える人間もいるが、先述のようにそれは「手に入らないものを高く評価する」ことに繋がるので、欲求不満を抱えることになる。

特定の事物を幅広く経験(購入、鑑賞)できる立場にあれば、(自分が手にできる物の中で)自然と「客観的な評価」が形成されていくので、そういう立場に立った時だけ批評家を目指せばいいのではないか。


ちなみに「身近にあるものを高く評価する」戦略(これは意識的にというより自然に形成される場合が多いが)のデメリットとして、あまりにそのバイアスが強いと「多少の努力で手に入るよいもの」を見過ごす可能性が高くなる。


2.特殊(狭い)概念に価値を置く

これは一見不合理だけど、利点もある。

例えば、模試のテストで総合得点では1位になれないけど、数学は1位という場合、「模試の数学の成績」に価値を置けば、狭い範囲で王者として君臨できる。

もちろんデメリットもあり、上記の例でいえば最終的に入試で評価の対象となるのは「総合得点」である場合が多いので、より一般的な評価基準で低く見積もられ、不利な扱いを受けることである。


あるいは人間は「細部に拘る」こと自体に価値を見出す場合も。

つまり「到達するまでの労力」が大きいと充実感も得やすいため、無駄に細部を重視するケースである。




つかまぁ「価値の置き方」に恣意性が働く(直感的な価値を歪める)のは、自分の経験以外の指標(他人の意見など)に重きを置くからなので、成長に伴ってその意義は薄れていく気はする…



あとなんつーか、趣味の場合には自分に都合のいいように価値を置けばいいと思うんだが、他人との価値観の共有を期待しないとしても、あまりに狭い部分に価値を置くと、自分自身その価値の認識に手間取る場合があるので、やり過ぎには注意。


…マキシマイザーはそういう失敗を犯しがち?