俯瞰とか一般化について

どちらも「(局所ではなく)全体を見る」ということなんだけど。

具体的にどういうプロセスで行われるのかに興味がある。


例えば、「自分は家では勉強ができないから学校の自習室で勉強しよう」という判断をした場合、「自分は家では勉強ができない」という認識は自分の行動を俯瞰しているものと言える。

この場合、「俯瞰(一般)」ではない個別の事象は何か?

それは例えば「ある日家に帰っても勉強しなかった」ということだろう。

そういう経験を何度も繰り返すうちに、「自分は家では勉強できないんだ…」と気付くわけだが。

単純に繰り返した回数や統計(1年のうち何日家で勉強したか)によって気付く(俯瞰する)面もあるだろうが、重要なのは「家で勉強しなかった」特殊な(その時限りの)事情を排除することだろう。

例えば、ある日は弟がゲームに誘ってきたために勉強できなかったとする。

また別の日は家で読書に耽ったため勉強できなかったとする。

こういった場合に、勉強できなかった理由を個別の細かい理由と捉える(「弟が…」とか「読書が…」)と、「家で勉強するのは難しい」という判断には至らない。


結局、「弟や読書は本質的ではなく、家にいることが本質」ということに気付く必要があるのだが、その機構に興味がある。

先述のように「勉強できなかった時にその共通点を見出す」という部分もあるんだろうが、それは個別の理由(弟、読書)が「十分な理由」として見なせなくなることと同時進行なのではないか?