不安の拡散と収束

有名な太宰の『人間失格』の一説。

けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。
 そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。シヅ子の言葉を借りて言えば、自分は少しわがままになり、おどおどしなくなりました。また、堀木の言葉を借りて言えば、へんにケチになりました。また、シゲ子の言葉を借りて言えば、あまりシゲ子を可愛がらなくなりました。

ここまで作中の主人公は、自分以外の他者を「人間一般(世間)」という大雑把な枠で捉えており、特定の個人に対する不義理が「人間一般」に対する不義理となり、「人間一般」に見放されては生きていけないので、例え特定の個人に対しても不義理はできない、という思想なのだと思います。
「世間とは個人だ」という気づきは、特定の個人に対する不義理、あるいは特定の個人の下す自分への評価は、所詮その人にのみ属するもので、その人に(経済的or心理的に)依存しないのであれば(その人が自分にとって「代替可能」であれば)、さほど深刻な意味を持たないという発想なのでしょう。


またもう少し後にこんな一説も。

自分は世の中に対して、次第に用心しなくなりました。世の中というところは、そんなに、おそろしいところでは無い、と思うようになりました。つまり、これまでの自分の恐怖感は、春の風には百日咳の黴菌が何十万、銭湯には、目のつぶれる黴菌が何十万、床屋には禿頭病の黴菌が何十万、省線の吊皮には疥癬の虫がうようよ、または、おさしみ、牛豚肉の生焼けには、さなだ虫の幼虫やら、ジストマやら、何やらの卵などが必ずひそんでいて、また、はだしで歩くと足の裏からガラスの小さい破片がはいって、その破片が体内を駈けめぐり眼玉を突いて失明させる事もあるとかいう謂わば「科学の迷信」におびやかされていたようなものなのでした。それは、たしかに何十万もの黴菌の浮び泳ぎうごめいているのは、「科学的」にも、正確な事でしょう。と同時に、その存在を完全に黙殺さえすれば、それは自分とみじんのつながりも無くなってたちまち消え失せる「科学の幽霊」に過ぎないのだという事をも、自分は知るようになったのです。

上記も神経症にありがちな症状ですが、自分の安全を脅かす可能性のあるものがたくさん想起されると、強い不安に苛まれるわけです。

これに対する対処法の一つは「本当にそれが安全を確保する必要条件なのか確かめる」ことかと。

要するに、実際にそれを行わず(それに留意せず)に安全が確保されることが分かれば、それを気にせずとも生きていけるわけです。


以上の話をまとめると、不安の拡散を止める際に重要なのは

1.物事を細かく分けて捉える

2.真に必要なものを見極める

の2点かと。

まぁ実際はそういう気づき(理解)が必要というより、感受性が衰えるなり、社会経験を積むなりすれば、自然にそういう発想に到達するんでしょうが…