所有という概念について
「所有」という行為を物理的に定義するのは難しい。
「自分の半径5m以内に存在し続ける」ということはありえないし、「自分の家(敷地)の中にある」ことが所有と同義とも言い難い。
「所有」の本質は「近くにある」というより「いつでもアクセスできる(少なくともアクセスしやすい)」ということだろう。
もちろん、「近くにある」ことはアクセスしやすい条件の一つだが。
そういう意味では、「買ったはずなのに(整理してないので)見つからない」という場合は、所有している意味がほとんどないわけだ。
ちなみに、YouTubeなどでいつでも好きな音楽が聴けるのであれば、それは半ば「所有」に近いし、CDなどの現物を所有する価値は薄いと言える。
(「所有」と「アクセス権」を厳格に区別して論じている言説もあるが、ここではその別を重要視しないことにする)
「特定の物を購入して所有する」という行為が妥当かどうかも、基本的にそれによるアクセスの簡易化が支払った対価(金)に見合うかどうかで決まると思う。
ただ先ほど述べたように、購入してからの管理がいい加減な人間は、所有することで十分な利益を得ることができないわけだが。
しかし、「購入する(所有する)」という行為は、必ずしもそういった合理的判断だけでなされるわけではない。
例えば、美術品の購入の場合。
素晴らしい作品を手に入れることで、審美的な欲求を満たすことができるのだろうが、それはその作品でないと満たせないものだろうか?
作品集やウェブ上の写真を眺めるとか、もっと安い作品を眺めることでもおおよそ欲求は満たせるのでは?
実用品の場合は、その目的の達成に関していえば代替不可能(類似の機能のものはあるだろうが、どれかは必要になるという意味で)なので、購入する合理性は高いが、美術品や嗜好品の場合には、(欲求の充足という意味では)別のもので代替することは容易な気が。
特定の美術品を購入することは、大雑把な欲求の充足ではなく、細かい拘りを優先させた結果なのでは?
まぁ金があるのならそれでもいいんだろうけど。
あと「所有」に関してよく誤解しがちなのは、「手に入れることでアクセスする回数が無限になるわけではない」ということ。
実際は人生の時間は限られているので「無限」ではないし、そもそもそのものに愛する興味がすぐに失われて、買っても一度も使わない(見ない)というのもよくある話。