分節化の意義
武道などをやっていると、「昇段」にはそれなりの価値を感じるようになる。
しかし段が上がったから急に強くなるわけではなく、能力の向上は日々の練習によって、しかもわずかずつ実現されるものである。
もちろん他者へのアピールの材料には使えるだろう。
「毎日練習して強くなった」と言っても、それを他者が認識することは困難なので、高い評価を得るためには「昇段した」という事実が必要になる。
しかし「昇段」の意義は他者へのアピールばかりではない。
自分自身が能力の向上を実感する意味もある。
だが「自分自身が能力の向上を実感する」のであれば、日々の練習や細かい技術の向上で十分なのではないか?
まぁ「客観的な評価が欲しい」というのはあるかもしれない。
自分の判断は必ずしも当てにならないので。
ただ「昇段」の価値は他者へのアピールと客観的な評価の獲得だけなのだろうか?
「技術の向上」自体に価値を感じているとしよう。
その場合、技術が10(単位は特にない。相対的な値)上がれば満足度も10程度で、技術が1上がれば満足度は1程度なのか?
必ずしもそうではないと思う。
能力の向上がある程度「塊」になればその大きさに比例した満足感が得られるが、あまりにも小さいとそれに比例した価値すら感じられないのではないか?
すなわち、能力の向上という抽象的かつアナログなものを何らかの手段で分節化する必要が生じてくる。