嘲笑や唾棄によって満足感が得られる理由

その倫理的な是非は置いておくとして。

決して生産的ではないのに、多くの人間がそれによって満足しているのだから、満足感を得る方法として強力なのだと思う。


「嘲笑」にしろ「唾棄」にしろ、目の前に何らかの刺激源があることはほぼ保証されている。

しかし満足感を得るためには、その刺激を何らかの「好ましい概念」と関連付ける必要がある。

「嘲笑」や「唾棄」の場合には何と関連付けているのか?


例えばまぁ「好ましい対人関係の様式」とか「常識的な人間の振舞い」というものが自分の過去の経験から形成されていれば、対象の行動がそこから逸れた場合に、「好ましいものからの逸脱」を指摘することはできよう。

では「好ましいものからの逸脱の指摘」はなぜ満足感を生むのか?


ある種の「予測誤差」なのかもしれない。

目の前の「逸脱したもの」を基準にして「通常のもの」を想起すると、正の予測誤差が生じるといった。

しかし、通常「基準になるもの」は過去の経験などで、「予測の対象」は目の前の現象なので、そういう意味では逆転が起こっているわけだが。

また「通常のもの」の想起だけで満足感を得るためには、それが「いつでも手に入れられる」ことに加え、相応の感受性が必要になる気もする。

ちなみに「嘲笑」や「唾棄」によって満足を得る際の一つの落とし穴は、現在は「刺激源」があるとしても、それが常に存在するとは限らない(というか、刺激源に対して攻撃的な態度を取れば、離れて行くのが普通である)ので、恒常的な欲求充足の方法にはなりにくいということだ。


「嘲笑」や「唾棄」についてのもう一つの見方は、それが「同意者」の存在によって成り立つというもの。