諦めるための努力とか後悔とか
twitterより。
もはや成功の見通しがほとんどない、という時に、「最大限の努力をしてそれでもダメなら諦める」という心理になるのはなぜでしょうね?一番無駄な努力だと思うんだけど。
@ ふむふむ。むしろ「きっちり諦めるため」の場合もあるんじゃないかと思ったり。半端な努力だとあとでまた再挑戦してみたくなってしまうからとか。不合理っちゃ不合理なんですけども。
@ それが一番ありそうですね。ただその時間を別のことに充てていれば…と後悔することが私はたまにありますw
まぁ「成功の見通しがない」ことに確信があればすぐ止められるんだろうけど、そこまで自信がないんでしょうね。心のどっかで「もしかしたら…」と思ってる。
@ サンクコストバイアスみたいな感じですかね。費やした努力が報われないと、無理やりにでもその努力の対価を求めてしまう、みたいな。(ちなみに私もそこそこの年数研究やってますが、この業界ではかなり若輩の部類だと思いますw)
基本的に本人は「諦めたい」んだけど、成功の可能性が否定できずに「諦める」という選択ができないから、大きな労力を費やすことで積極的にコストを上げて、それを不利な選択肢として認知しようという戦略なのかもしれん。
自分は目算が甘いというか、経験が不十分なことに関しては楽観的な見通しを持ってしまいがちなんですよね。んで、理性のレベルで「無理なんじゃないかなー」と思ってても、直感的にその厳しさが認識できなくて、仕方がないので「無理だ」ということを実感するためにわざわざ行動を起こすことがある。
人生は無理ゲー
そういう心理の延長でOCDになる人もいるんじゃないかと思ったり。
そういう心理と上手く折り合いをつける方法はまだ見つからんので(たぶん以前に比べると改善してるんだけど)、「とにかく行動を起こして経験を増やす」という愚直な策を取ってる。まぁ根が怠惰なので、それすら十分にできてるとは言い難いんですがw
冒頭の「最大限の努力をしてそれでもダメなら諦める」の解釈としては、他に「最大限の努力をして無理だったのなら、(目的に向かうことが正当化される限り)努力の程度に関する判断のミスはなかったと言える」というのも可能なのかなと。
では「判断のミスがなかった」ことはなぜ重要なのか?
というかなぜ人間は自分の判断のミスを後悔するのか?
最近は「判断のミス」も経験の不足による必然で、さほど後悔しなくなってきてるんだけど。
後悔する人間は「必然」とは思わず、「その時点で別の判断もできた」と思ってる。
結果を割り当てる対象の違いと思わなくもない。
後悔しない人間は失敗を経験の不足に割り当てる。
後悔する人間は自分の判断ミスに割り当てる。
では「判断ミス」に失敗を割り当てることがストレスを生むのは?
「後悔」は基本的に「成功」の可能性を否定できないことから生じるのだと思う。
まぁ過去の判断なんてのも取り返しがつかないのだから、すでにそこに遡って別の行動を起こして成功する可能性はゼロなのだけど。